◆原発賠償京都訴訟、街頭での署名訴え

5月26日で原告本人尋問の傍聴も終わり、残る傍聴行動は8月18日の第30回期日と9月29日の結審を残すのみとなりました。弁護団は最終準備書面や最終弁論の準備に入っています。

いま原告と支援者にできることは、この裁判が社会的に注目されていることを裁判所に示すため、公正判決要請署名を広げることです。裁判所に提出した署名数は累計11,919筆となりました。来る9月29日の結審の際には、累計で2万筆を超えるよう約1万筆の署名を積み上げたいと考えています。

原告団・弁護団・支援する会の合同事務局会議では、署名を拡大するために労組や各種団体への協力要請行動や街頭署名行動に取り組むことを決めました。前者については事務局で要請に行く労組・団体をリストアップしているところです。後者の街頭署名行動については、当面の日程を以下のとおり決めました。一緒に署名集めをしていただける方は、直接現地に集合してください。

6月10日(土)10時半~12時 阪急西院駅前
*この日は、14時から近くのラボール京都(第1会議室)で「原発事故から6年 原発再稼働で市民の命と生活は守れるか?」(主催:小山田春樹と京都市民ネットワーク)があり、フリーライターの守田敏也さんが「原発事故取材最前線」と題してお話されます。また、原告団共同代表の福島さんのお話もあります。

6月25日(日)12時~13時 しんらん交流館前
*この日は、13時半からしんらん交流館(大谷ホール)で大飯原発差止訴訟の第5回原告団総会があります。

7月1日(土)10時半~12時 伏見大手筋商店街(京阪伏見桃山駅付近)
*この日は、13時半から龍谷大学深草キャンパスで「原発事故による健康被害、保養の意義について」(主催:避難者こども健康相談会きょうと)があり、菅谷昭・松本市長が「原発事故に伴う健康への影響、対策について~チェルノブイリ医療に携わって~(仮題)」と題して講演されます。

8月18日(金)14時~15時 四条河原町マルイ前
*この日は、午前中に第18回期日があり、報告集会のあと、各自で昼食をとり、マルイ前に集合して街頭署名行動を行ないます。マルイ前では過去2回行なっていますが、今回は英文の署名もあるので、外国人観光客にも署名をお願いすることが可能です。

署名をお願いする新しいチラシもできました。いつものとおり裏が署名用紙になっています。添付しますので、プリントアウトしてお使いください。

◆5/26 原発賠償 京都訴訟第28回期日の御礼と報告

支援する会事務局の上野です。5月26日の原発賠償京都訴訟第28回期日の報告です。

◆原告本人尋問の最後の傍聴ということで、多くの支援者の方が駆けつけてくださり、抽選となりました。また、午後からも抽選となり、途中で退席する方の情報を得て、何人かの方が法廷入り口で退席者を待つという事態になりました。

今回は9人の原告が証言台に立ちました。原告が訴えた点を中心にまとめてみました。

◇会津美里町から避難した女性は、長男の健康への影響を心配し、家族は一緒に居るのが当たり前という考えから、母親、妹二人も一緒に避難。長男が橋本病だと診断され、避難するまでに11か月かかり被ばくさせてしまったと悔やんだ。モニタリングポストでの計測の仕方には疑問があるし、土壌も汚染された。国や東電は責任を認めて、安心して子育てができるようにしてほしい、と訴えました。

◇三春町から避難した女性は、健康を害し、放射能から逃れるために娘や孫と東京へ避難。近くに清掃工場があり、被ばくも懸念されたので大阪へ。しばらく娘のところにいたが、自分もちゃんと住まいを構えないといけないと思い、京都に移住した。夫は京都では友人もできず、コンクリートのマッチ箱のような家では息がつまると言って、三春町に帰っている。自分は空間線量が下がったといっても事故前には戻っていないので帰れない。〝自主避難者〟は貯金を取り崩して生活しており苦しい。国と東電は責任と非を認めて償ってほしい。きれいな環境に戻してほしい、と訴えました。

◇福島市から妻と子を母子避難させている男性は、事故当時は毎時10μSvぐらいあり、子育てできる状況ではない、逃げさせなくてはいけないと思った。自分は生活を支えるために残ったが、毎日寂しく、割り切れない思いをしている。今でもホットスポットが至る所にあり、日々被ばくのリスクを抱えながら生活している。妻と子を避難させて良かったと思っている。福島市は28万人の県庁所在地だから避難指示区域に指定されなかったと思っている。子どもの命が軽んじられたと思う、と訴えました。また、〝自主避難者〟が作った映画の上映後に教師が語ったという「自分の子どもに(避難させなくて)ごめんねという想いを持って生きてきたが、それを言えなかった」という言葉が紹介され、みんなのが胸
を打ちました。

◇いわき市から避難した女性は、先に避難した親戚や知人から「避難しろ」という電話が入り、市から「安定ヨウ素剤を取りに来るよう広報があり、子どもから「うちはいつ避難するの?」と聞かれる状況の中で、夫が避難を決断。京都に着いた時、子どもは「もう深呼吸してもいいんだよね」と言った。夫はその後、仕事と家が心配だということで、いわきに帰った。40キロ先に第1原発が建っており、地震の度に不安になる。親が不安に思うところに子どもたちを返すわけにはいかない。長女から「私、結婚してもいいの?子どもを産んでもいいの?」と聞かれても「国がちゃんと守ってくれるよ」と言えないのがつらい。もっと誠意を持って対応してほしい、と訴えました。

◇仙台市から母子避難し、いまは山形市に移住した女性は、長男の離乳食を始める時期だったので、不安になり調べた。土壌汚染をチェルノブイリ法に当てはめると放射線管理強化ゾーンに近いと思い、ここでは生活できないと思い、京都へ母子避難した。しかし、見知らぬ土地で育児を手伝ってもらう人もいないので、家族で暮らしたいということで山形市に移住し、夫はそこから1時間半かけて仙台まで通っている。仙台市の土壌汚染は数百ベクレル/㎏で一見すると低そうに見えるが、本来ならドラム缶に入れて保管しないといけない値だ、と訴えた。

◇いわき市から母子避難した女性は、ネットで知り合った人に「空間線量は下がってきているが土壌汚染は免れない」と教えてもらい、ここには居られないと思い、娘2人を連れて京都へ避難。その後、避難に対する考え方の違いから夫と離婚。長女は右脇の下のリンパが腫れ、のう胞も見つかった。次女は「いわきに帰りたい。パパに会いたい」と感情を爆発させて体調を崩し学校に行けなくなった。私自身は帯状疱疹に3回かかった。元の自宅の庭の土を測ったら放射線管理区域を超える数値が出た。また、いわき市の家庭で掃除機にたまったゴミからは5000ベクレル/㎏のセシウムが検出された。戻れる状況だとは思わない。原発事故で家族がばらばらになった苦しみを知ってほしい。未来ある判決を望ん
でいる、と訴えた。

◇郡山市から避難した女性は、当時11が月だった長男の健康に不安があった。長男の主治医から「外で遊び太陽を浴びて育つことが大事だ。なるべく遠くに行く方がいい」と勧められた。また夫の上司からも「県外避難も視野に入れるように」とのアドバイスがあり、夫が再就職したばかりだったので、母子避難した。京都で「自分の子どもは福島の人とは結婚させない」」と言われ、それからは福島出身と言わないようにし、一線を引いて付き合っている。夫は避難後、就職したが休みをとれずメニエル病を発症したり苦労した。帰りたいが、子どものことを考えると帰れない、と訴えました。

◇二本松市から避難した女性は、学校の先生から鼻血を出す子が沢山いると聞き、ここでは生活できないと思い、母子避難した。夫は住宅ローンの支払いもあり、生活を支えるために残った。避難後は2歳の子を預かってくれる所がなく、1人で育児と家事をやらなければならず大変だった。その後、夫も合流したが、収入が減り苦労した。事故前は将来のイメージを持っていたが、今は夢も目標もなくなり、根無し草のように生活している。線量が戻ったとしても、向こうで再び仕事を探すのが大変だし、子どもが帰ることに納得しないので戻れない、と証言しました。

◇福島市から母子避難した女性は、福島市の線量が毎時24μSvと高く、小4の娘が鼻血を出した同じ日に姪も鼻血を出したと知り、異常だなと思って避難を決意。講演を聞いた空本議員(民主党。小佐古参与の教え子)は、こそっと「お子さんは避難した方がいい」とアドバイスしてくれた。600人ぐらいの小学校で50人ぐらいが避難していた。夫は自営業で、生活を支えるために残った。家族が離れた寂しさや食生活の乱れから、夫はメニエル病の症状が悪化した。私は帰りたいと思っているが、娘をこれ以上被曝させたくはないし、娘も京都か関西にいることを望んでいる。裁判長の質問に答えて、公的機関がきちんと土壌汚染を測ってほしい、と訴えた。

これまでは、「声が聞こえにくい」という声が傍聴席から上がっていましたが、この日の9番目の女性は、逆に浅見裁判長から「声が大き過ぎるので、もう少し抑え気味に」と注意される一幕もあり、大いに法廷を和ませてくれました。証言された原告のみなさま、本当にお疲れ様でした。

今回で、長かった原告本人尋問の傍聴活動は終わりです。専門家証人尋問(2回)も含め、昨年12月からの6か月間で実に9回の期日がありました。毎回のように傍聴に参加くださった支援者のみなさま、本当にありがとうございました。

◆さて、裁判もほぼ終わり、残るは8月18日と9月29日(結審)を残すのみとなりました。弁護団は最終準備書面や最終弁論の準備に入って行きます。さて、原告や支援者は結審に向けて何をするのか。この裁判が社会的に注目されていることを裁判所に示すための公正判決要請署名です。

昨日の開廷前に、26団体、3,803筆を第3次分として京都地裁に提出しました。これで、累計110団体、11,919筆となりました。次回の第4次集約は9月15日、提出は9月29日結審の日です。この時に累計で2万筆になるよう取り組んで行きます。

そのために6月10日(土)と25日(日)の午前中に街頭署名活動に取り組みます。複数の原告が参加を表明しています。時間と場所は、ブログhttp://shienkyoto.exblog.jp/ やこのMLでお知らせしますので、ぜひご参加ください。

◆結審の9月29日(金)の午後から勝利に向けた集会とレセプションを開催します。時間と場所は追って連絡しますが、ぜひ日程を開けておいてください。

◆[原発賠償京都訴訟]5/20市民の集いの報告,5/26傍聴要請

支援する会の皆さま
原告の皆さま
(2017年5月23日)

暑くて、青いまぶしい空の日々ですね。原告の福島敦子です。

  • 20日の午前中は原告団総会、午後からは支援する会の総会および市民の集いへ、多くの方がご参加くださいましたことに感謝申し上げます。
  • 午後は、立命館大学教授の吉村良一先生の『群馬訴訟判決の評価と各地の集団訴訟の争点』と題した講演と田辺弁護団事務局長の『京都訴訟の勝利に向けて』の講演がありました。
    約50名の参加者で最後の質疑に至るまで活発な意見交換が行われました。
    MLに投稿してくださる皆さまの内容とともにぜひ読んでくださいませ。
  • 吉村先生のお話は、30以上の原発賠償の集団訴訟の中で、群馬訴訟を中心に過去の公害訴訟の判例も盛り込んだ内容の濃いしかしながら共同代表の私には大変重いお話でした。
    要点を記述いたします。
  • 判決は、国と東電の連帯責任を認めた。長期評価が作成された平成14年7月31日から数か月後には敷地地盤面の高さを超える程度の津波が予見可能だったとした。(これは田辺先生も強く訴えている部分であります)
  • 原告の侵害された平穏生活権については、避難行動を生活の本拠の移転といい、「自己実現に向けた自己決定権」を中核としてとしながらも肯定している。
  • しかし、もともと賠償金は低く算定されがちな判例が多い中で、この裁判でもADRでの賠償額が算定から差し引かれ、多くの原告の請求が棄却されたことについて吉村先生は残念だと話されました。
  • また、「自己決定権」について、避難を強いられたことが自己決定権の侵害となると中心に置かれ、低線量被ばくの身体的な影響は加味されず、区域内避難者よりも精神的にも大変な区域外避難者の方が重く受け止められるべきなのに避難者の差が出てしまった、と話されました。
  • 水俣や、薬害の裁判を引き合いに、裁判は限界があり被害者全ては救われない、裁判は通過点であり、先にあるのは施策にいかに結び付けていくかだと強調されました。(河原さん、堀江さん、福島は寝ていないですぞ)
  • 吉村先生には、またぜひ勉強の機会を与えていただきたいなと思いました。
  • 田辺先生も、大変明瞭に京都訴訟の進み具合や意義をお話しくださりました。
    ・訴訟の目的:真相究明、再発防止、被害回復、そして避難の正当性を社会に知らしめること!
    ・京都訴訟で、専門家証人を行い、低線量被ばくの健康における影響を掘り下げた!
    ・世論の形成・よい判決をとり続け、法廷を熱気で満たし、正しい情報を発信し続けること
  • 最後に、共感を得る説明の大切さを伝えてくださいました。『福島(や近隣都県)』の支援、『避難者』の救済は矛盾しない!
  • さて、26日金曜日は、期日です。本人尋問に9名の原告が法廷に立ちます。10時15分開廷。9時35分から50分まで傍聴券配布。
    皆さまの熱いご支援よろしくお願いいたします。そして、原告さんは最後まで仲間を原告席から見守りましょう!!

今日も一日、よい日で。

福島敦子

◆5/12 原発賠償 京都訴訟第27回期日の御礼と報告

原発賠償訴訟・京都原告団を支援する会事務局の上野と申します。

昨日(5月12日)に行なわれた原発賠償京都訴訟第27回期日の報告です。長文、重複、共にご容赦ください。

今回は、抽選こそありませんでしたが、ちょうど発行した整理券の数が聴席数と同じとなり、無事満杯になりました。また、前回と違い、午後からも代理人席、原告席、傍聴席とも午前中とほぼ同じくらい埋まったままでした。参加されたみなさま、お疲れ様でした。

また、午後から4人の託児希望があり、前回と同じ託児スタッフのみなさまに引き受けていただきました。託児スタッフのみなさま、本当にお疲れ様でした。

今回証言に立ったのは7名(うち1名は、高齢のお母さんの代理人として2世帯分証言)でした。
◇郡山市から避難した女性は、父と自分は先天的に白血球が少なく、チェルノブイリに調査に入った人の話を聞いたこともあり、健康被害を懸念して避難を決めた。父が認知症だったので母親に任せるわけにはいかないため、高齢の両親も一緒に避難した。最初は「あなたたちだけで避難しなさい」と言っていた母だが、避難後には「窓を開けて洗濯物が干せて、食べ物も安心して食べられる」と喜んでくれた。環境が激変したこともあり父の認知症は進み、こちらで亡くなった。チェルノブイリでは被爆者手帳のような施策が行なわれている。わが国でもしっかりと責任をとり、必要な施策を講じてほしい、と訴えました。

◇福島市から避難した女性は、事故当時は放射線の知識がなかったのでネットで調べて、放射線管理区域というものがあることを知った。当時の福島市は3~5μSv/hあったので、長く居るのは危険じゃないかと思った。夫は住宅や車のローンが残っていて仕事を辞められず、長女は「友だちと離れたくないし、祖父母を置いて行けない」というので、下3人の子どもと一緒に母子避難した。夫との関係や生活費の負担もあり、子どもの学校のタイミングで帰らざるを得ないと思っている。国は法律できまっていることを守ってほしい、と訴えました。

◇福島市から避難した女性は、事故後、外気を取り込まないようにガムテープやサランラップで窓の隙間にめばりをし、子どもは一歩も外に出さなかったので、食べ物を口にしなくなって咳もひどくなった。放射能という得体の知れないものへの恐怖から心身ともに疲れ切った。夫は責任ある立場にいてすぐに退職はできなかったので母子避難した。その後夫も退職して合流した。現在でも、山林は除染されていないし、汚染土が積み上げられている。子育てする環境ではないと思うので戻れない、と証言しました。

◇福島市から避難した女性は、事故前の1月に家を新築し、自分は妊娠中だった。夫は住宅ローンが残っているので、2歳の長女と生後1か月の長男を連れて母子避難した。子どもが小さく、見知らぬ土地での生活は大変で、心身ともにストレスがたまった。夫は仕事を辞め、家を売却して合流したが、仕事がなかなか見つからず、見つかってもパワハラがあったりして4回転職した。貯金を使い果たし、避難生活を続けられなくなった。福島に戻った今でも、「離れた方がいいのではないか」と思いながら生活している。「出るも地獄、戻るも地獄」だ。福島が安全だというのなら、「自分が移住してみてください」と言いたい。美しい福島を戻してほしい、と訴えました。

◇三春町から避難した女性は、事故当時夫が海外に出張中、娘は祖父母に会いたいと中国の小学校に一時的に入学していて、自分一人だった。自宅の寝室で0.7μSv/hの線量だった。中国大使館がチャーター便を出して避難を呼びかけていた。いったん中国の実家に帰り、翌年3月に京都に避難した。その後、夫とは離婚することになった。原発事故さえなかったら、普通の暮らしをしていた。避難する必要もなかったし、この場に立つこともなかった。避難を選択する権利を認めてほしい。事故前の福島に戻してほしい、と訴えました。

◇いわき市から避難した女性は、事故前は過疎化対策で住民を募集していた貝泊に移住し林業や農業に取り組んでいた。コイコイ倶楽部のみなさんは移住者に親切で里山で暮らす知恵を教えてくれた。事故直後はほとんどの世帯が避難し、小学校が閉校になった。移住した5世帯全部が避難した。自分たちも子どもを被ばくから守るために避難した。実家がいわき市にあり、いずれは帰って母親の介護をしたいと思っているが、いまは土壌が汚染されており帰れない。事故がなければ、住み続けることができた。国と東電の無責任さには怒りで一杯だ。これ以上放射能で苦しむ人が出ないようにしてほしい、と訴えました。

◇福島市から避難した女性は、夫の父が所有する土地に知的障がい者のグループホームを建てるのが夢だった。事故当時は妊娠中だったので、胎児被ばくを避けるために避難した。親族でも弟世帯、夫の姉世帯、祖父母など半数ぐらいが避難した。自分は甲状腺にのう胞が見つかり、3人中2人の医師から「悪性の疑いがある形をしている」と言われている。娘も甲状腺異常があり、白血球の好中球が少ないと言われた。放射線との因果関係はあるともないとも言えないと聞いている。原因が初期被ばくによるものなら帰れない。事故によりかけがえのないものを沢山失った。被災地に残る人は見捨てられたように感じる。人の命が一番大切にされる社会になるよう望んでいる、と訴えました。

証言に立たれた原告のみなさんは、これまでの原告と同じように自分の思いを率直に述べ、被告側の反対尋問にも誠実に対応していました。それに対し被告側代理人は、加害者側なのに検事のように尋問し、傍聴席の支援者の怒りを買いました。その上、やり取りが傍聴席にまで伝わりにくかったことやエアコンの配管から時々大きな騒音が聞こえて一層聞こえにくかったことで傍聴者の不満が爆発。さらには被告側代理人の反対尋問がしばしば規定時間をオーバーしたことに川中弁護団長が抗議するなど、休憩時間に法廷の内外で大きな声が飛び交うというハプニングが起きました。

本人尋問は終了時刻を予想するのが難しいこともあり、今回も報告集会は設定せず、食事をとりながら昼休み集会を行ないました。午前中に証言を終えた原告や午後から本人尋問に臨む原告が挨拶。参加者から今後の取組みの告知がされました。また、前回期日に予告されていた宗川先生の新作『福島甲状腺がんの被ばく発症』(文理閣)が発売になり、会場で売れた代金の中から6千円の寄付をいただきました。この場を借りて、宗川先生にお礼を申し上げます。

次回は5月26日(金)です。原告本人尋問の傍聴もいよいよ最後となります。次回も傍聴席を満杯にしたいと思いますので、ご協力をお願いします。

また5月20日には、弁護士会館の大ホールで支援する会の総会(13時~13時30分)、原発賠償京都訴訟の勝利をめざす市民の集い(13時30分~16時40分)を開催します。市民の集いでは、吉村良一・立命館大教授に「群馬訴訟判決の評価と各地の集団訴訟の争点」と題してお話いただき、田辺保雄弁護士に「京都訴訟の勝利への展望」を語っていただきます。こちらも、ぜひご参加ください。

◆4/21 原発賠償 京都訴訟第26回期日の御礼と報告

原発賠償訴訟・京都原告団を支援する会事務局の上野です。
 
昨日(4月21日)に行なわれた原発賠償京都訴訟第26回期日の報告です。長文、重複、共にご容赦ください。
 
今回は、何期日ぶりかで傍聴席が埋まりませんでした。新年度を迎え、職場の移動などもあり、休みにくい方もおられたのかも知れませんが、午前中で傍聴券席が10席近く余っていました。午後からは代理人席、原告席もまばらになり、傍聴席も空席が目立ちました。
 
久しぶりに託児を希望する原告さんが2名おられたため、託児スタッフの確保が必要になりました。直接声をかけ募集もした結果、なんとか4名(うち1名は午前だけ)の方が託児スタッフを引き受けてくれました。1日は長かったと思いますが、子どもたちは元気に過ごしたようでした。託児スタッフのみなさま、本当にお疲れ様でした。
 
今回も朝から夕方まで原告本人尋問でした。証言に立ったのは9名。原告が訴えたことを中心にまとめてみます。

◇郡山市から避難した女性は、子どもを被ばくさせたくなくて家に缶詰状態にしていたが、ストレスを感じて母子で避難。夫は飲食店を開店したばかりだったので残ったが、家族が離れて暮らすのは限界だと思い3年後に店を閉めて合流した。戻りたい気持ちはあるが、子どもの健康とまた転校の辛さを味わわせたくないので、今は戻る気はないと訴えました。

◇千葉県柏市から妻子が避難している男性は、勤務先の大学のモニターで空間線量が高いことがわかり、子どもと妊娠中の妻を心配して妻の実家がある京都へ避難させた。宿舎で付き合いのあった人たちはほとんど転居した。市は除染は終わったと言っているが、アスファルトが交換されたことはない。元の数値に戻るには10年スパンで見ていかないといけないと思っていると訴えました。

◇福島市から避難した男性は、今の妻と付き合っていたが、線量が高かったので福島で子どもを産むのは厳しいと判断。職場が避難所になっていたので、仕事を辞めて避難するまでに3~4か月かかった。子どものことを考えると今は戻る気はない。元と同じ線量になれば帰りたい気落ちはあると訴えました。

◇いわき市から避難した男性は、地震で家の壁が落ちて使えない状態になり、福島第一原発で働いていた義兄から「ヤバいぞ」と言われて避難を決めた。長男は入学が決まっていた茨城県の高校の寮へ戻った。長女は学校で「福島から来た子」と言われて不登校になり、結局妻の実家に帰ってしまった。知人や親戚が線量を気にしながら生活をしているのを知っているので、下の子を連れて戻ることはできないと訴えました。

◇福島市から避難した男性は、地震の日に妻子は避難し、自分も翌日合流して実家のある山口県へ避難した。その後、妻子は福岡市→福津市→京田辺市と住まいを変え、自分も福島大学を辞め、西日本の大学に移った。2年間の別居生活の間に56回妻子に面会に行った。低線量被ばくの健康影響が明らかになっていない中で、避難には合理性があるし、自分たちが被った被害は原発事故によって必然的に生じた被害だと思う。東電や国は真摯に対応してほしいと訴えました。

◇福島市から一時妻子が京都に避難していた男性は、原発が爆発した時の放射線量が30μSv/hだったこと、アメリカ政府が自国民に80キロ以内から避難せよと指令を出したことを知って妻子を避難させることを決めた。住宅ローンがあり、自分は仕事を辞められないので、上司に相談して転勤・出向願いを出していたが、13年12月に認められ、大分に転勤になり、家族と一緒に住めるようになった。避難者についての今村復興大臣の発言は許せない。二度とこういうことが起きない社会になればいいと思っていると訴えました。

◇福島市から避難したのち戻った女性は、先に兄が避難したのと回覧板で近くの公園の線量が高いことを知って避難を決めた。子どもが通っていた幼稚園・小学校では合わせて100人はいなくなった(避難した)。生活が苦しくなり戻ったが、支援があれば避難を続けていた。戻ってからも、野菜は京都から取り寄せ、水も買っている。子どもが外出する時はマスクをさせ、長袖・長ズボン。弁当を持って行かせるために私学に入れた。戻ってからも精神的苦痛があるので請求したいと思っていると訴えました。

◇千葉県松戸市から避難した女性は、子どもがリンパ性の病気にかかり、再発したら生命にかかわると言われていた。チェルノブイリ事故では白血病が多発したことを知っていた。長男は夏から原因不明の高熱が続き、長女は頭痛、だるさ、吐き気が続いた。子どもは住む所を選べないので、親が決断しないといけないと思った。避難後に千葉県でも甲状腺がんが患者が見つかった。千葉県北西部の汚染を知ってほしいと訴えました。

◇郡山市から避難した男性は、1歳の子どもがあり、妻が妊娠していたので、健康被害が心配で避難を決めた。避難後、放射能への恐怖、家族の健康被害への恐怖、知らない土地での生活などが重なり、うつ症状になった。今も睡眠障害がある。いくら除染しても森林が手つかずでは、線量はまた戻ってしまう。東電と国がちゃんとしていなかったので事故が起こった。復興大臣の「自己責任」発言はあまりにも無責任だ。強い怒りを覚えると訴えました。
 
被告側からの反対尋問はすでに聞き飽きていますが、「親や兄弟は避難したか?」「職場、同級生で避難した人はいたか?」「帰ることを検討したことはないか?」「市の広報紙に載っている線量を知っているか?」など。個別の損害に関しては、「新たに買ったテレビが○○円となっているが、もっと安いものもあるのではないか?」などと質問し、会場の失笑を買いました。また、「転居した際に、家財道具を持って来ることもできたのではないか?」と問い、「引っ越し代が高くつくので実家にあげた」との返答にグーの音も出ない場面もありました。
 
証言に立たれた原告のみなさんは、堂々と自分の思いを述べ、被告側の反対尋問にも誠実に対応していました。その姿勢は、仕事とはいえ加害者でありながらまるで検事のように上から目線で尋問する被告側代理人の下劣な品性を炙り出していたと思います。
 
今回はいろいろな事情で報告集会ができないため、昼休みに食事をとりながら簡単な集会を行ないました。今後本人尋問を控えている福島在住の原告(妻子が避難中)は、福島県の中通りで生活する住民が精神的被害を訴えて裁判を起こしたと報告、避難していない人も決して安全・安心だと思って暮らしているわけではないことを訴えました。ほかに、これから証言台に立つ原告とすでに立った原告が一人ずつ挨拶に立ちました。また、ひょうご訴訟の原告も支援を訴えました。
 
いま増えている関東からの避難者たちの交流グループ(GO WEST)からこの間の取り組みと今後の予定が報告されました。
 
次回は5月12日(金)です。9名の原告が証言台に立ちます。毎回同じような反対尋問も聞き飽きた感はありますが、証言台に立つ原告にとってはそれぞれが一回きりの本人尋問です。次こそは傍聴席をぜひ満杯にしたいと思いますので、ご協力をお願いします。

◆公正判決署名、海外でも!

支援する会のみなさま
原告のみなさま

いかがお過ごしでしょうか。日々、いろいろあります。原告の福島です。
表題の件、海外に滞在の原告園田さんより心温まるメールをいただきましたのでご紹介します。
リバプールでの緑の党世界大会へ参加した園田さんの報告です。この報告は、週末に公正判決署名が1万人突破したことの知らせとともに大変ありがたいものであるためみなさまへ送ります。

園田さんmail抜粋

私は二日目の核セッションでスピーチしました。
敦子さんやみんなの顔が浮かんでくるので、涙をこらえるのが大変でした。
セッション後も多くの方の反応が止まらない状況でした。
韓国緑の党代表のLeeさんが私のスピーチの原稿を韓国語に翻訳して拡散してくれることになりました。
その他にも、ウェールズのカーディフ緑の党、英国リーズ緑の党、マンチェスター緑の党も原稿を拡散してくれます。

日本語での報告です。→こちら

公正判決署名は、3日間会場で一人一人に声をかけ集めました。
170筆以上集まりました。
中には、元サンフランシスコ市長、スウェーデン国会議員、様々な国の市議会議員、科学者も含まれています。
スウエーデン国会議員さんは、今週月曜から始まる国会で福島避難者のことを話すからと、署名英語版も持っていってくれました。
今のところ、合計250筆以上は集まっています。
英語版も出来る限り拡散しているので、事務局に海外からの郵便物が届くようになればいいですね。

**
園田さんは、この2日目の分科会で、日本から来た被爆者の方と一緒に登壇し、被爆者のお二人は「私たちは福島原発避難者に早急な支援が必要だと訴えています。そして一日も早く広島長崎被爆者のように被曝手帳を福島原発避難者にも与えて欲しいのです。」と伝えたそうです。園田さんは、彼女たちの包み込むような優しさ、その下にはとてつもない強さがみえて、涙が出てしまったと。また、一緒に核のない世界になるよう頑張りましょうと励まされたようです。

園田さんの息子さんは、イギリスで、木津二中にいる同級生に負けないくらい頑張っています。ブラスバンド全国大会で優勝したそうです。
復興庁が帰還政策に明け暮れています。木津川市の府職員住宅は、4世帯の避難者が住まう所でしたが、無償提供打ち切りですでに1世帯が退去、あと1世帯も今春には退去予定です。日本に帰ってくるのを楽しみにイギリスでがんばっている園田さん親子のためにも(もちろんほかの府住宅に住まう方々も!)住宅問題は今後も大きく展開していかなければなりません。(今、京都府の住宅問題が深刻です)

公正判決署名、感謝の意を込めて(長文失礼しました)
福島敦子

◆3/29 原発賠償 京都訴訟第25回期日の御礼と報告

支援する会事務局の上野と申します。

3/29の原発賠償京都訴訟第25回期日の報告です。今回は春休み、年度末という事情もあってか、支援者の出足が悪く、時間切れで抽選には至りませんでしたが、傍聴券はすべてなくなり、傍聴席は満席となりました。

今回は原告7人が証言台に立ちました。前回と同じように主尋問5分、反対尋問20分(東電・国合わせて)、再主尋問5分という変則の時間配分でした。それぞれの原告が訴えた要点をまとめてみました。なお、資料はなく、耳で聞いたことをメモしたので、聞き間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

◇須賀川市から避難し、いまは戻っている男性は、念願のお好み焼き屋を開業していたが、事故が起こり、一番は娘の健康だと思い、店を処分して避難。だが、いい就職口が見つからず、3年後に戻った。私の人生は原発事故で狂わされ、夢をあっという間に壊された。その責任を取ってほしい、と訴えました。

◇福島市から避難した女性は、自分の工房を持ち、陶器の制作・販売、陶芸教室を開いていた。収入は少なかったが喜びを感じていた。娘の健康被害を心配して避難した。避難後は陶器の制作はしていない。工房は今も線量が高くて帰れない。放射線量が事故前に戻ったら、すぐにでも帰りたい、と証言しました。

◇いわき市から避難した女性は、何も知らずに外に出て子どもたちを被曝させた。これ以上被曝させたくないと思い避難した。今年の正月に実家に帰った時、周囲の線量を測ったが、自宅前にあるブルーシートや神社など線量が高いところがあり、帰るのは危険だと思った。かけがえのない時間を犠牲にして避難したことを理解してほしい、と訴えました。

◇福島市から避難し、いまは戻っている女性は、パティシエとしてお菓子教室を開いていた。避難先では優しい言葉をかけてくれる人もいたが、差別的なことを言う人もいた。心身の疲労と経済的にやっていけなくて、妥協して戻らざるを得なかった。フレコンバッグがあちこちにあり、昔のようではない。食材についてはとても気を使っている、と証言しました。

*次は郡山市から避難の女性でしたが、私は井関弁護士から呼ばれて廊下に出たために、主尋問と東電代理人の反対尋問を聞くことができず、要点をまとめることができません。悪しからず。

◇福島市から避難し、いまは新潟県の長女宅に身を寄せる女性は、助産士の資格を取り、長年の夢だった助産所を開設。もともとプルサーマルに反対し、もし事故があれば避難しようと思っていたので、三女のいる京都へ。その後、左腕を壊死性感染症に侵され、入院中付き添ってくれた長女の家に移住。助産所のお客は80人ぐらいいたが、そのうちの15人くらいが避難した。事故が落ち着けば帰りたい。チェルノブイリのように原発を囲ってもらいたい、と訴えました。

◇いわき市から避難した女性は、観光農園を営み、ブルーベリーなどを栽培していた。ベリー類は収穫するまでに時間がかかる上に、放射能を吸着しやすいため、原発の爆発に危機感を持ち、農園を廃業して避難した。京都で起業を支援するプロジェクトに応募し、ブルーベリー栽培を始めたが、収穫はまだ。葛藤しながら生活している、と証言しました。

今回の反対尋問では、細かい質問が目立ちました。自分で放射線量を測定した原告に対しては、「どんな器具を使ったか?」、「いつ購入したか?」、「どこを測ったか?」、「地上何センチで測ったか?」、「計測した数値はメモしたか、誰がメモしたか?」、「この数値は記憶で書いたのか?」など。また、「家財道具の処分の意味は?」(売ったのか、捨てたのか?)、「領収書は残していないのか?」など損害請求の内訳についても細かく聞いてきました。

証言された原告のみなさんは、あとで振り返れば、あそこはこう言えば良かったとか、陳述書をもう一度ちゃんと読んでおくべきだったなど、いろいろ反省点はあると思いますが、それぞれ頑張って証言されました。

トピックを一つ。今回は証言者が7名といつもより少なかったこともあってか、反対尋問が決められた10分(東電)、10分(国)を超えることがしばしば。いまは新潟県に在住の女性に対する東電代理人の反対尋問が特に長く、どう考えても20分ぐらい尋問しているなといらいらしていた時でした。川中弁護団長がすくっと立ち上がって、裁判長に抗議してくれました。

そもそも3時半には終わるだろうと予想して、報告集会を3時半から5時までと設定し、群馬訴訟判決の解説を予定していましたが、裁判長の緩慢な訴訟指揮で時間が大幅にずれ込み、終わったのは4時半。会議室が5時半まで取ってあったので、とりあえず報告集会へと声をかけ、30数名の支援者と証言台に立った2名を含む11名の原告の参加がありました。

群馬訴訟判決について解説するはずの田辺弁護士は進行協議で到着が遅れ、会場を出なければいけない5時半にやっと到着。当初予定を大幅に短縮して15分程度で話してもらいました。敷地高を超える津波は予見可能だった、また時間も費用もそんなにかからない措置をとっていれば結果は回避できたとして、東電と規制権限を行使しなかった国の責任を認めた点は評価できることが確認できました。ただ、それに比べて損害については半分以上の原告が賠償を認められず、認められた賠償額も極めて低額である点については疑問がのこりましたが、時間切れで質問の時間がとれませんでした。

群馬訴訟判決については、支援する会の総会&講演会(日程未定)でも取り上げようと計画しています。次の期日(原告本人尋問)は4月21日(金)です。引き続き、ご支援をよろしくお願いします。